小説/1章/005_お金が足りない
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お金は何よりも大切だ。
と、フィオは痛感していた。
おとうさんが言っていた、お金よりも大切なものがある――なんて言葉は今のフィオには全く響かない。お金がなければアルマを学校に行かせられない。アルマが必死に今読んでいる聖書を借りるのだって少額のお布施がいるのだ。自分を信じて頼ってくれたアルマの期待に応えるためにも、フィオは市庁舎が開く時間になるやいなや駆けこんだ。
「なんでもいいんです!一番稼げる仕事をください!」
奥のカウンターに通された後、以前のおじさんが目の前に来るのを見て開口一番に告げる。フィオの大声にまだ人の少なかった市庁舎の中から奇異の視線が向けられる。
「ちょ、ちょっとフィオくん、抑えて」
「あっ、ごめんなさい...」
おじさんは変わらず葦のペンで眉間をトントン、ぐりぐりとしている。
「...うーん、やっぱり市から君に紹介できるものはボランティア活動しかないよ。心苦しいけどね」
「なんとかなりませんか...」
「なんとかならないのは君がよくわかっているだろう?」
もしかしたらと一縷の望みをかけて訪れた市庁舎だったが、現実は残酷だった。
聞き分けのない子供に言い聞かせるようにおじさんが言う。
「...君は今、人権がない状態だ。普通の仕事につくのは無理だと割り切ったほうがいいと思うけれどね...。それにだ、雇い主に直談判ならともかく、市から君を紹介なんてしたら私たちが責任を問われてしまう」
その言葉はフィオを諦めさせるのに十分だった。
「...わかり、ました...清掃のボランティアを、させてください...」
「うんうん、まぁ切り替えて切り替えて。じゃあ簡単に説明をするからよく聞いていてね。今月の路地清掃の区画は―――」
そこからのおじさんの言葉はとても空虚なものに感じた。
「みなさーん!清掃時間は終了でーす!ボランティアの方は集まってくださーい!」
清掃を始めたときと同様に市庁舎の職員がやってきて、その前に一列に並ぶ。
この一カ月、ろくに食事を摂れていなかったフィオですら、吐きそうになるほどの悪臭と汚れだった。ただでさえ苦しい生活なのに、吐けば胃の中のわずかな栄養まで失ってしまう。こらえきれない吐き気と格闘しながら、フィオは必死で手を動かして頑張った。
一列に並んでいるとやがてフィオの番が来た。
「はい、これ」
鼻をつまみながら職員の人が渡してくれたのはたった11リルだけだった。
「えっ...?15リルじゃ...?」
「うれしいことに、今日は参加者が多かったからねぇ。人数で割ると、こんなもんだよ」
鼻をつまんでいる職員は、さらに重ねて言う。
「まぁ、その分、作業も楽だったろ? さぁ、もらったら早く帰って帰って」
頭の先までが冷えるのを感じる。半日以上つかって、それで11リル?
今日の作業がこれで楽だった?とんでもない。
フィオは知るべくもないが、これは作業ノルマがある仕事とは違うので、時間さえ守っていれば報酬はもらえた。なんとなくこなすだけでお金がもらえるのだ。そりゃ誰にでもおススメできる、割のいい仕事として紹介されるだろう。だがそんなここでの常識も知らず、幼く体力の少ないフィオは疲労困憊になるまで一生懸命働くという、ここで一番向いていない働き方をしてしまっていたのだ。
(足りない...教会への謝礼に一回50リル...、一日の食費に最低でも10リル、これから学校に向けて勉強するなら木綿紙に葦ペン、インクも...いずれは全部そろえる必要があって、500リル以上はかかる...。これからアルマは服だっているし、風呂代もかかる...、足りない、足りない...)
どうすれば...。フィオは下宿の酒場へ帰りながらずっと考えていた。
大通りで、身なりのいい子供たちとすれ違う。おそらく姉弟だろう。姉が弟のカバンを魔法でふわふわと浮かせながら、二人で羊肉の串を食べている。ぐずる弟の肩を軽くたたき優しく笑いかける姉の姿は、フィオがなりたい理想そのものであり。
今のフィオにはあまりにも遠く、自分がとてもみじめに思えるのだった。
(僕は、僕が...働かなくちゃ...。...でも、どうすれば...これ以上は市庁舎に頼れない...、露店でも働かせてくれなくなってきている)
ふと、壁に張られたピンク一色の広告が目に入った。壁には何度もはがされたような跡があり、今はられている紙は新しい様子だ。
【ちょっと頑張るだけで高収入!日雇い可能/未経験歓迎♪/夜だけの簡単なお仕事!求人紹介のローズは赤鼻通りスグ!】
(……高収入? 夜だけ……?)
フィオは足を止めて、じっとその広告を見つめた。
逡巡したのは一瞬だけだった。フィオは足を赤鼻通りへ向けていた。
赤鼻通りは大通りから3本程ずれた通りだ。大通りと並行するように作られている通りで、レガン市の中で特に酒場や宿が集まっている通りである。酒に酔って鼻を赤くした人であふれかえっていることから通称として赤鼻通りと呼ばれている。
フィオは初めて赤鼻通りへ足を踏み入れた。別に避けていたわけではない。赤鼻通り自体が下宿先から少しはなれていることと、赤鼻通りは高級な店が多いため、そもそもフィオには用がなかったのだ。
まだ夕方の明るさが少し残っているものの、通りの明かりはすでに灯っていた。店先のランプの火が色とりどりの柔らかな光を落とし、石畳に影と色の揺らぎをつくっている。
すでに何杯目かわからない酒を手に、笑い合う中年の女性客たち。客引きをする、けばけばしい化粧と派手な衣装の男性。その間をおしゃれをした男性が、気取った様子で抜けていく。
様々な香油のにおい、料理と酒、すべてが混ざった、嗅いだことのない匂いが通りに漂っている。
フィオは自分が異世界に来たような、妙な感覚を覚えながら歩みを進めた。
(求人紹介の……ローズ……ローズっていうお店かな?それとも、人の名前?)
【赤鼻通りスグ】という張り紙を思い出し、通りの入口付近できょろきょろとあたりを見渡すが、それらしきお店は見つからない。というか看板が多すぎてどれか分からない。
「...あの、すみません、ローズ、を探しているんですけど」
フィオは思い切って、空のジョッキを片手に地面にしゃがみ込んでいる女性に声をかけた。
「...」
女性は顔を上げることもなく、指先を目の前のひと際うす暗い酒場に向けた。
「...あ、ありがとうございます!...あの、お大事になさってください、ね?」
ちょっと酒の怖さを感じたフィオだった。フィオは心配しつつも指さされた酒場へと入る。
酒場の中は店の広さの割には客が少なく、静かだった。いくつかのピンク色の火のランプが店内を薄暗く照らしている。あまり見たことのない長めの店内に長めのカウンター。何人かの女性客が見える。テーブル席はあるものの、女性客はカウンターの方に座っており、ほとんど空席だ。
しばし店内を見渡し、カウンターの奥の方に胸元を大きく露出したシャツを着た男性が3人ほど並んでいるのを見つける。
「おや?...坊や、道に迷ったのかな」
「あっいえ、...店、か人を探してるんです。ローズってここのことですか...?」
「...」
話しかけてくれた男性は少し困った様子で店の奥の方へ目を向けた。それを見たカウンターの一人が店の奥の方へ入り、筋骨隆々の大男を連れて出てくる。
「どうした?」
「ローズさん、この子、この店を探してここに来ちゃったみたいで...」
大男はそこでやっとカウンターのフィオに気が付いたようだった。足先から頭のてっぺんまでフィオを観察した後、おもむろに口を開く。
「ふむ、まぁとりあえず話を聞こうか。...この店じゃなんだ。そこの軽食屋にしよう。ついておいで」
カウンターから出てきた大男――ローズさんに手をつかまれて、店から出ていく。フィオはカウンターの男性たちに軽く会釈して店をあとにした。
夜の街の喧騒の中、ローズと手をつないで歩いていると、通りすがりの女性たちがこちらを見てくすくす笑っているのに気づく。
ローズはそれを気にした様子もなくそちらへ軽く手を振ると、見ていた女性たちから黄色い声が上がった。
「人気者なんですね」
「...赤鼻通りでだけな」
ローズは少し照れくさそうにしながらもそのままフィオを連れて赤鼻通りから出る。通りの外はまた落ち着いた雰囲気に戻り、赤鼻通りの異世界感は消え去る。
通りのすぐそばの食事処を目指して二人で歩く。赤鼻通りから出た後は手は離されていた。
ほどなくしてローズに連れられて店内へ入る。先ほどの酒場とは違い少しがやがやとした雰囲気だ。
二人が店内に入ったところで、フィオと同い年くらいの女の子から声がかかる。恰好からしてここの店員だろう。
「あれ、ローズさん。どうしたのこんな時間に。うちは酒はだしてないよ?」
「いや、今日はそんなんじゃない。ミートパイとスープと、そうだな、サンドイッチでも頼めるか。あと水もくれ」
「りょーかい、あとでもってくよ」
ローズは店員と簡単なやり取りをしてお金を払い、隅の方にあるテーブルへと腰掛ける。フィオも手で促されて、ローズの対面にある椅子に腰掛けた。
明るい店内だったので気づいたが、ローズの分厚く大きく開いた胸元のそばにはピンクのガラスと真鍮の薔薇のブローチが飾られている。
「それで、どうしたんだい?なんでウチに来た?」
ブローチに目を取られていたフィオはハッと意識を戻す。
「...あっ、えっと。ローズさんの求人を見て...。...お金が必要なんです」
「......。まぁ、一旦詳しく聞こうか」
フィオは言葉に詰まりながらも、兄妹でレガン市に来てからのことをゆっくり話し始めた。